後編では、『強迫性障害』の理解に
一歩ずつ踏み込んでいきましょう。
強迫性によって「やめられないもの」があるとします。
周りの人からは些細に見えたり、
理に適わないと見えるものかも知れません。
一方、
本人にとっては、どう感じられているでしょう?
本人にとっての強迫性
本人なりにはそれが理屈を超えて「大事」なのです。
まだ理性的に自分をコントロールできる人なら、
「確かに大事だけど、捕らわれ過ぎると不自由だから」と、
どうにかして折り合いをつけていけるでしょう。
また、まだ不安に打ち勝てるような人なら、
「この気持ちがやむまで、やりすごそう」と
強迫性に負けないよう踏ん張るでしょう。
しかし、人間は誰しも
自分自身の全てを理性でコントロールしてはいません。
仮に頭の中では「ばかげてる。やめたい」と思っていたとしても、
自分の力だけでは折り合いをつけられない人もいて、
そうであれば適切な補助が必要なのです。
そこで再び出てくるのが、
適わないと不安になる、という客観的な理屈です。
ですが、
主観と客観は、あくまでも慎重に擦り合わせる必要があります。
客観的な「正論」によって、むやみに主観的な心をくじいてしまっては、
結果的に本人の心の再構築に繋がっていかないからです。
その点に気を付けながら、
サポートされる人とサポートする人は充分な話をする必要があります。
あえてですが、主観と客観のどちらが優先なのかと問われるなら、
主観に広く耳を傾けて心を整えることの方が優先されるべきでしょう。
さらに、もう一歩、
心理面の理解に踏み込んでいきましょう。
では、強迫性の主体は、誰でしょうか?
そして、強迫性に翻弄されている最初の人は、誰でしょうか?
それらはどちらも、その人自身なのです。
翻弄しているのも、翻弄されているのも、同じその人自身の心です。
それが本人を苦しめているのに、
周りの人からは、
強迫性に翻弄されている人が、
まるで周りのことに目もくれず
独り相撲をしているように見えがちかも知れません。
本人の心の中で、自覚の有無はともあれ、
どうしようもなく強迫性によって
意志をくじき←→くじかれ続けてきたのだとします。
そうでありながら、
表面的には逆で、他者からは本人が強迫性を貫いてきた方で見られがちです。
「やめたくても、やめられない」とは、そういうことなのです。
そうした強迫性ゆえに孤独に陥りやすく、
そして、孤独ゆえに強迫性が強まってしまうことがあります。
これでは悪循環です。
強迫性と心理カウンセリング
強迫性にさいなまれている人は、
その思いを、その苦しみを、胸の内に抱え込みがちではないでしょうか。
そうでしたら、当事者ではない第三者のサポートである
心理カウンセリングによる克服をお勧めします。
また、同じような体験をしている人の集まりが
心の助けや支えになることもあるので、
機会があれば足を運んでみてはいかがでしょうか。
固執の意味、強さ、理性の利き方、
大事と思っている事柄との関係性、不自由の体験などといった
強迫性を形作る要素は、人によって異なります。
また、克服への心構えや置かれている状況にも、個人差があるでしょう。
それらによって取り組みの内容や段取りが変わります。
ぜひ、心理カウンセラーとの話し合いを経て
方針を決めていただければと思います。
鹿野 豪
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